自尊心を拗らせ、自分が何者であるべきかさえ見失った者は、いつしか人の姿も忘れて月明りにいざなわれるがままに人間界から消えていくらしい。まるで、一昔に描かれた御伽噺や文学作品のように。

この世界の恐慌のうち第七の世界破壊の一つとも云えよう亜人人権戦争問題は、龍天国で突如として放たれたビーストウィルスによるテロ事件が勃発の引き金ではないかと言われている。
発症から1~数年ほどで全細胞が獣と同じ遺伝子や組織の構造になるその驚異的な疫病は、テロ勃発から瞬く間に龍天国の人類を侵食し 人間社会を狂わせた。現在も感知するための医療が発展しておらず、ビーストウィルスそのものも次々と変異株を生み出して対抗し続けているらしい。
しかしある時を境に、そのビーストウィルスによる変化病は「山月病」という癌に似た不治の病として言い包められるようになり、ワクチンの接種義務やウィルスの隔離制度は何もなかったかのように緩和されていった。それはまさしく、罹患者の人格格差を置き去りにするようだったという--

「……以上が、ボクの研究発表だ。まだまだ山月病の可能性や懸念要因は山程あって伝えきれないところだが、まぁこの後の対策本部に充てる時間も惜しいから今回はこのあたりで止めるべきだろう」
難しい科学用語や図式が所狭しと書かれた白板の前で、袖も全く足りていないぶかぶかの白衣に包まれた小柄な身体から大きく伸びている鼠のような尾と耳を翻すように少女は振り返った。
彼女は「子刻ねのこくハッカ」、ビーストウィルスに関する研究の第一人者である、17歳博士の天才少女だ。何より彼女自身もあのテロ事件からビーストウィルスに罹患している被害者であるが、現在はこうして同境遇の人間と獣の中間地点にあるような青年たちと山月病特殊対策本部部隊「獣爾騎兵シャウアルきへい」として活動している。
振り返った目線の先には、後天的獣人たちが講義机で頭を酷使したような様子で、一息を吐いたり伸びをしたり 焦って板書を撮り逃さないことに必死になったりと、この講義に食らいつこうとしている様子が伺えた……ただ、明後日の方向へ顔を向けて寝落ちしている1人を除いて。
その後まもなくチャイムの音が講義室に響き、ハッカの「各位、休憩を挟みながら持ち場に戻るように!」という指示で座席の獣人や半獣人たちは散り散りと去っていった。
「……まったく。ネゝコだけは懲りないな」
取り残されたように堂々と居眠りをする猫獣人の少女「寅刻ネゝコ」は、溜息交じりに歩み寄るハッカの気配を感じた拍子で鼻息といびきもつれたのか、先程の講師である人の前で躊躇もなく欠伸をして目を覚ます。
「……んにゃ…もう終わった?相変わらずハッカの話はにゃがいにゃ……」
「まぁいいよ、キミの場合は態度的に長話以前の問題だろうからね。それに、今回の議題はキミが深く詮索する機会のないものだろうし」
呆れた口でハッカは袖で掴むように白板消しを手に取り、白板の文字を消していく。その様子を呆れたように頬杖しながらネゝコは睨み、ふとこんなことを呼び掛ける。
「モラトリアムとは全く関係のにゃい子猫だと思ってるんにゃね。ハッカはネネコのこと」
その言葉を聴いたハッカは白板消しの手を止め、目の前に残っていた文字を見つめた。目線には「思想の淘汰」「社会的な浄化」などと書かれており、その部分だけ科学的というより社会美学的な語彙が集まっていた。
「……ということは、山月病の治療施術を受けるのかい?キミは『猫人の方が生き方に合う』と、よく周りに言っていると聴くけど」
「うるさいにゃあ……」
ハッカの返しに不服そうなネゝコは不貞腐れたように講義机に突っ伏す。これ以上の言い返しが来ないと察したハッカは、お構うことなく文字を消した。

山月病の治療を訴える声や反対デモを罹患者や患者からはよく聞き受けられるが、実際は積極的な治療制度の制定が緩和される一方であるため 山月病が進行した半分の患者は完全に獣へと変貌してしまい人間社会から追放されていくという。なぜなら ある研究により「山月病はモラトリアム思想や攻撃的思想・消極的思想が強ければ強いほど進行する」ということが判明してから、龍天国憲法では思想の規制があったこともあり 山月病が人間社会の浄化作用をもたらすとされたためだ。
危険で救いようのない思想を持つ患者程 月明りの下で獣のように変貌していき、やがて自分が人であったことすらも忘れていく--そんな呪いのような疫病が、この国の救済措置となってしまったのだ。

「本当は、ハッカもこんにゃくだらにゃい病原菌にワクチン打ち込んで、人間に戻りたいと思ったことはあるんでしょ?ネゝコだって、何度かはこんな人間社会から逃げられるチャンスだと思ってるけど、そんにゃのただの逃避行じゃにゃい。そんにゃこと、冷静に考えたら解りきってるのに……」
ネゝコは、うづくまるように呟く。すると白板を真っさらにしたハッカはほくそ笑むようにこう囁いた。
「わかっているならそれでいいんだ。ボクたち人間の形損ない、獣人に堕落された者たちは、その心の獣を意のままに操ってこそ この生存競争を生還できる。毒に苦められたから薬に頼るのもそうだが、毒は巧く濃度を調整すれば、やがて病を超える薬になる……この龍天国は、苦しみに耐えた者だけが世に生き残れるんだよ。まるで、野生の世界のようにね」
そうハッカは、狂気に満ちたような決意を抱くように講義室を去っていった。嫌気を憶えることすら億劫になったネゝコは、その後姿を俯せたまま諦めるように見送った。
「……ほんと、ハッカはドSでドMなヘンタイモルモットだにゃ…」

獣爾騎兵。それは、14の山月病患者による獣人改造人間による特殊部隊。彼女らの持つ獣の力は、ビーストウィルスにより変異した細胞をより変異させて構築させているという--
(そして 月明りの夜は静かに更けていく…(終幕))

(※この物語はフィクションにつき実際の社会現象や時事とは関係ありません)