寅刻ネゝコはいつも以上に苦しそうな形相で容器のような寝床から上体を突き出した。
彼女の状態はかなり落ち着きがなく、息はすごく荒れており 脂汗がひどく出ている。
「……なんで、なんでまたアイツの夢で…!!」
覚束ない足取りで寝床から身体を出し、寝室の隅にある棚の薬箱から数状の錠剤と1本の注射を手に取り、震える手で服薬したネゝコは、薬棚に凭れ掛かるようにして呼吸を整え、やがて数十秒の経過とともに平常心を取り戻す。
獣爾騎兵では兵員全員が山月病に罹患しているが、山月病は精神疾患と内臓疾患の両方の特徴を併せ持つ 龍天国の指定難病だ。
糖尿病なら血糖値を調整するホルモンが内臓で供給困難となることで起こる様々な病的弊害であるのと同様だが、山月病は人間の理性を維持困難できない状態を引き金に 情緒の乱れや思想の過激化などの精神疾患に加え 生体構造の突然変異をも引き起こすという、とても凶悪な症例を有している。当然 簡単に治療できるものではなく、理性安定剤の人工投与などで症状を緩和することはできるものの完治は極めて困難なものとされる。
しかし、獣爾騎兵はこの山月病の症状を使い 超人的な戦闘能力に変えているため、龍天国の山月病問題に立ち向かう力を有しているのだ。
「またよからぬ夢でもみたようじゃの?ネゝコ」
カプセルベッド群の中から胴体を捻り出すかのように出てきては、最後にベッドを出た長く太い尻尾で器用にカーテンを閉めながら疲弊した状態のネゝコの元へ蛇人の少女が歩み寄る。
「……あぁ、カミツ……気にしにゃくていいにゃ。わt…ネゝコがきたときからもう慣れてることにゃし」
「なら、いいのじゃが……今日は学会講演日じゃろ?そんな容態じゃあ、ハッカの技術話を受け流すのもよぅできんじゃろ」
巳刻カミツはそうネゝコを尻尾で宥めながら雑に置かれた内服薬を代わりに片付ける。
「……二日酔いか機嫌がいいのか知らにゃいけど、やけに察しがよくて助かるにゃ。もう今日の講演はお言葉に甘えて欠席しとく。その間はテキトーに日向ぼっこして休むにゃ…」
「うむ。養生するんじゃぞ」
そう肩の力を下ろすように寝室を後にするネゝコを、カミツはその様子を憐れむような心配の眼差しで見送った。
その後、学会講演。議題は『山月病による新人類時代の実現に向けた技術開発』とのことだが、出席者は絶望的に少なかった。いつもは最前席で喧嘩を売るようにうたた寝をしているネゝコは勿論、その隣で板書を取るハネゝカも、後部席で頭を抱えながら講演内容と格闘しているコーガも、リウロンも、他の兵員も座席にいない。出席していたのは、カミツと講演者のハッカのみだった。
「やれやれ。あいにく山月病のこれからについて語ろうと思っていたのに、みんなの関心を惹くにはまだ先みたいだね」
ハッカは慣れた様子で、閑散とした座席を俯瞰するようにほぼ誰もいない出席を確認した。
「関心もなにも、今回の議題はいくらなんでものぅ……」
カミツは呆れた様子で尻尾を靡かせながら頬杖をする。彼女の机上には板書用のノートも筆記用具も置かれていない。
子「そうだね、この議題は……“君がすでに理解している”ことだものね」
巳「新しい時代がどうこうとかいいよるけど、わらわが何年龍天国を生きてきたと思っておる」
子「さぁ?年齢を公開してくれないことには、ボクにもわからないかな」
巳「どの口が言うか……ビーストウィルスのテロが起きたばっかりの渦中に生きておったことくらい、わらわもおぬしも--」
子「何か言ったかな?ボクは“17歳”だけど」
巳「……」
そういう他愛ない会話をしているうちに、定刻の鐘が鳴る。その音に乗るかのようにハッカは「さて……」と白板の方へ向いてマーカーを手に取った。
龍天国が大規模なテロによりビーストウィルスの被爆に遭い、山月病の前身となる変化病が発生したのは--他の研究者によると、76年前とされている。それから17年前までの間 子刻ハッカは存在していないはずで、ハッカがかつて学者名義で名乗っていたと自称する「易.爾姫」という名の女性学者も、とうの昔に死亡した。龍天国内ではそのように報道されているが--獣爾騎兵の間では、“事実であり事実でない”とされているらしい。
「まったく……おぬしのような17歳が、実際に存在するわけなかろうに」
カミツはそう、彼女に聞こえぬよう小声で呟いた。
一方その頃、ネゝコは屋内庭園の窓を眺めながら、今朝見た夢のことを……獣爾騎兵入団時のことを、思い返していた。
4年前、ネゝコこと恋華は人間とうまくいかない自分のことが昔から嫌で、兄(コーガ)が罹患したウィルスに自ら感染し 人間を辞めることを望んでいた。学力も無く、才能もなく、実力的な格差ばかり生まれる龍天国の社会に嫌気がさす生活だったのだろう。
やがて山月病と診断が下され、隔離病棟に住むこととなった恋華だったのだが……ある日、その病院で山月病による安楽死を推進しているというあらぬ噂が立ち、恋華ら患者を人質にした立てこもり事件が発生した。そこへ『子刻ハッカ』と名乗る“少女”率いる獣爾騎兵の特殊部隊が鎮圧に到着したのだが--
『この山月病で“人間を辞めたい”?』
「……そうよ。私は別に、人間として助けられたいわけじゃない。だから私のことなんか、助けなくてもいい」
『……なるほど』
「…何?」
『本当はあの立てこもり集団に交渉するつもりだったけど……残念ながら作戦変更だ。あの立てこもり集団を弾圧する』
「えっ?」
そう言って“少女”は、武装した集団に襲いかかった。
しかも恐ろしいことに、その“少女”は死角から何十何百も現れ、撃ち殺されては武装集団を喰らうように襲ったのだ。
この世の終わりのような恐怖を憶えた恋華は、何十体を優に超える悍ましい姿をした“少女”の遺体を躱すように逃げるが、手術室に誘導されるかのように取り囲まれてしまう。
『……やれやれ。せっかく補欠になれそうな兵員を確保できたと思えば、残機がかなり減ってしまった。かるく3年……いや、体感誤差を考えたら⬛︎⬛︎年ぶりかな?えーと……⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎のロットナンバーは……』
やけに落ち着いて朗々としている“少女”の声は、医療器具を寄せ集めて積み上げた異形ともいえる巨大な武器を下ろしながら、手術室に怯えて唖然としている恋華の前に立った。
「…何?何なのよ、あなたは!!?」
『--さて、話が逸れちゃったけど。もう一度訊くね?』
震えと体液で何も抵抗できない恋華は、ただこちらに迫ってくる“少女”を目に焼き付けることしかできない。
『--君は本当に、この山月病で“人間を辞めたい”のかな?』
「--新人類時代とは、よくいったものにゃ」
そんな弱みを握る過去の夢に、ネゝコは呟いた。
(そして 月明りの夜は静かに更けていく…(終幕))