獣爾騎兵の兵員寮の窓へ、満月の光が静かに差し込んでいる。半開きに閉ざされたカーテンの隙間から零れ出るようなその月明かりに、寅刻ネゝコはふと目が覚めた。
身体を敷き詰めるように小コンテナの中でネゝコは眠っていたにもかかわらず、それを狙うように月光が射抜いてきたからなのだろうか。
ネゝコは能力のこともあり体が柔軟で、いかなる時も狭い空間へ詰め込まれるように身を潜めることが好きだった。そのためもともと12人分しか寮内にない寝室も、ネゝコの分は小サイズのコンテナに毛布を敷き詰めていれば十分だったのだ。
しかしながら今夜はそんなネゝコも寝付けなかった様子で、コンテナから捻り出されるように身体を出し、他の兵員を起こさないようにカプセルベッドの空き状況を眺める。
「兄にゃ、今日も夜間巡回にゃね……」
ネゝコの兄であり主力番手の寅刻コーガのベッドは、カーテンが全開で中に誰もいなかった。
寝室を抜け休憩室に夜な夜な訪れたネゝコは、軽食を物色してドリンクゼリーを手に取ってから、ベンチに腰掛けた。
「こんな深夜に夜食とは珍しいな、恋華リアンファ
すると聞き覚えのある声が反対側の勝手口から昔の名前で呼びかけてきたので、ネゝコは振り返った。
「兄にゃ…?もう巡回終わったの?」
「あぁ。今夜の担当エリアは、ほとんど国管轄でなんとかするらしいからな。獣にもなったことねぇ連中のデモが夜通し開かれてて、おれたちの専門ではねぇとよ」
寅刻コーガは、そう呆れた口調でネゝコの隣に座り、ポーチから飲み差しの飲料ボトルを取り出して口に付けた。

「そういや、恋華は山月病についてどう思ってんだ?」
ふと、コーガはそうネゝコに問いかけた。ネゝコは戸惑うようにコーガの方を向いて、いつになく弱気な素ぶりをしながら細々と……淡々とした声で答えた。
「……正直、恋華にもわかんない。最初は、自分の嫌なところから離れて、人として誰にも否定されずに気ままに生きて……そんな飼い猫のような存在になれる、魔法のステータスだと思ってた。恋華は昔から世間知らずで、無知で、怠け者で、マイペースで、人として何もできない存在だから、いっそ猫になれたらという思いを、叶えてくれるような……でも……」
ネゝコこと恋華は、自分の発言と共にしおしおと蹲っていく。するとコーガは、ふとこんなことを言った。
「おれは、山月病なんて“呪い”だと思ってる。自分の弱みに漬け込まれたところで負けてたまるかと、死ぬ気で努力を重ねて、人として生きようと毎日必死になって、それでも何一つ報いてくれねぇ他人に打ちのめされて……それを繰り返していくうちに、気付いたら姿や立場まで人間からかけ離してくる、まるで無慈悲で災難で最低な神の悪戯だ。恋華、おめぇもわかってるんだろ?なんでおめぇは--」
「やめて」
コーガの徐々に取り乱すような呼びかけを、恋華はいつになく引き締まった声で止める。その拍子で我に帰ったコーガは、「わ、わりぃ……」と静まり返った。
すると恋華はふと立ち上がり、席を後にしながら背中でコーガに語る。
「…だからわかんないんだよ。恋華は…ネゝコは……人として生きたいのか、獣人として生きたいのか……それでも」
心を宥めるように間を置き、ネゝコは愛しく振り返って再び甘々とした口調で締めくくった。
「もうそんにゃこと、しばらくはわからにゃくていいにゃ。人も獣人も対等に生きられるためにゃら、もうそんにゃこと、触れるほどでもにゃいよ」
ネゝコは手に持っているドリンクゼリーを飲み干し、空いた容器を屑籠くずかごへ通り過ぎるように捨ててその場を去った。

休憩室に残されたコーガはふと、立ち入るまでもなかった巡回対象エリアを遠目で見る先にあったデモの様子を振り返る。
山月病とは無縁で獣人の雇用対応に悩んでいるごく普通の社会人、山月病により社会的な不利益を被った獣人の家族、獣人増加により商売に影響が出てしまった商人あきんど……または、いつか我が身もその獣人被害を被ることを未然に恐れた無知な人々。様々な龍天国の一部国民が「山月病治療放棄反対」という唯一の共通目的を掲げて、眠れぬ夜を救えと月明かりの下で声を荒げている。
「……ったく。どっちが獣だかわからねぇもんだな」
「心配することもない、あれは人間そのものだよ」
コーガがふとつぶやくと、休憩室の隅からハッカの声が降りかかってきた。
寅「……っておま、兵長!? いつからいたんだよ!」
子「ざっくり20分くらい前からかな?兄妹ふたりで獣人ならではなお気持ち雑談してたと思えば、あまりにも物思いに耽ってるご様子だったしちょっと見物してみようかなって」
寅「…あーー……やっぱ兵長、さっきの巡回報告の時点でおれがヘラりそうになってたの、気付いてたんだな…」
子「当然。兵長として仲間飼い獣人のメンタルケアは必要義務だよ」
そう会話をかわしながら、ハッカは座高に少し合わない高さのベンチに飛び乗るようにコーガの隣へ座った。
その後、コーガは落ち着いた様子でハッカにこう打ち明ける。
「それにしてもさ…人間と獣人が対等に過ごせる日は、いつ訪れるんだろうな?人間は獣人の心なんかよくわかんねぇで、いっつも人間の基準で獣人を判断しようとするし、その所為で余計なお節介や不要な淘汰しかしてこねぇ。おれたち獣人は……山月病罹患者は、同じ人間として共存してぇのに、そのためにやってることが何もうまくいかねぇし、それを理解されることも……」
その話に、ハッカはまた微笑みながらこう答えた。
「……なら己の獣を、山月病のビーストウィルスを、人間として生きたいという強い意志で飼い慣らせばいいんだ。獣人として生きざるを得ない時って、この世界では何だと思う?ビーストウィルスの所為で山月病に罹患しそれが発症してしまった時か?龍天国の治療制度で人間としての生活が困難と判断された時か?獣に成り果てた姿で人間を傷つけてしまった時か?変化が進行してやりたかったことが困難になってしまった時か?……いいや、全て違うだろう。ボクの答えは、『人間として生きることを、自分から諦めた時』だ。たとえ周りのお節介や淘汰や社会やエゴに振り回されようと、どんなに残酷な目に遭い身体が化ける呪いに罹ろうと……自分が自分であるために、その弱み辛みの全てが詰まった獣を飼い慣らし自分の力にしてこそ、獣人は人間以上の才能を発揮できる。キミたち獣爾騎兵は、その力を最大限に秘めた可能性の獣だ。まぁ……ネゝコはもう少し、調整がいるかもしれないけどもね」

窓からの月明かりが、次第に西へ西へと沈んでいく。
獣の魂と人の心を有した寝息が児玉する獣爾騎兵の静かな寝室に、残りの兵員が戻っていった。
(そして 月明りの夜は静かに更けていく…(終幕))

(※この物語はフィクションにつき実際の社会現象や時事とは関係ありません)